最初のご挨拶、ライ麦畑の中にて思うこと

世界の皆様こんにちは。


今まで、ライブドアでブログをやっておりましたが、心機一転、アメーバオウンドにブログを移すことにしました。理由は特にありません。


2019年も間もなく終わりを告げようかという年末、皆様におかれましてはご機嫌にお過ごしになられていますでしょうか。来年にはとうとう東京オリンピック。あっちにこっちにバタバタし、不安も多いですが、もうここまで来たらけが人も死人も出ないよう、平和の祭典として成功するよう祈るのみです。


さて、ここ数カ月の多忙さをこれでもかと描写し、「どうだ俺こんなに働いてるんだぜどうだどうだ」と、どうだ感を出そうかとも思ったのですが、それで得られるものは何もないのでやめておきます。仕事のことなんて本当は書きたくもないのです。


このブログは前身のライブドアブログ「書いておきたいこと」と同じく、愚にもつかぬ考えごとをあれこれと書き連ね、というか、愚にもつかぬ考えごとを整理するために文章を書く場として、大いに活用するつもりでございます。


愚にもつかぬことというのは例えばここ最近私の中の関心ごとは「天皇制」「フェミニズム」「山本太郎」「人権とは」「安倍政権ってまじいつになったら年貢を納めるの?」といった、左の方からは歓声が、右のほうからは阿鼻叫喚、そんな具合のそんな感じ、ただしそういったことをものすごく勉強しているわけでもなし、無責任に自分の考えをつらつらと書いていくだけですのでそこのところはよろしくお願いしたいと、そういうことでございます。あ、デマだけは絶対に書かないようにするというルールは設定していますし、そこは死守するつもりでございます。


といってもそんなことばかり考えているわけでもありません。相変わらず小説や音楽、お酒は生活を彩ってくれていますし、女の子のこと、セックスのことも考えています。考えまくっています。歳だけは食ってしまいましたが(なんと今年で35です。うける)、心の中はいつまでもエロ大学生のままなのです。こんなにも人って変わらなくていいものなのかと、自分で唖然とするくらい、変わらない部分がある。その部分を「成長しねーな」と嘆くのではなく、「まあこれがわしの個性であるぞ」と開き直れるようになったのは間違いなく年の功なのであり、変わっていく部分と変わらない部分、その両方を持って、気取った言い方をすれば「清濁併せ吞んで」、のんべんだらりとやっていく所存です。


そういえば最近、サリンジャーの『キャッチャー・イン・ザ・ライ(村上春樹訳)』を初めて読みました。読まず嫌いでここまできたのですが、サリンジャーの『ナイン・ストーリーズ』はめちゃくちゃ面白かったという記憶があり、事ここに至っては(別にどこにも至ってないのですが)読まずにおれるかライ麦畑! というわけで、ペーパーバックを東中野の書店で買い求め(あ、いま、中野区に住んでいます)、ちょっとずつちょっとずつ読みました。小説を一気に読む集中力がなくなり始めておる。って、そんなことはどうでもいいのですが、これがとっても面白かったのです。既読の方にとっては「何をいまさら」でしょうが、どっこい、人生とはある種の人にとっての「何をいまさら」の積み重ねなのであり、そうやってご新規さんをバカにする姿勢はよろしくないと思います、いい加減にしなさいまったくもう。


失礼しました。


で、キャッチャー・イン・ザ・ライなのですが、この小説の主人公、ホールデンの語り口がもう、最高におかしくて、私は何度も彼に笑わせてもらいました。皮肉とユーモアを鎧みたいに身にまとって、ホールデンは世の中の色々を批評していくのです。そう、鎧。つまり、彼は、身を守っているのです。何から? 世界からの無関心、悪意、醜さ、そういったものからです。その鎧をやさしく剥いでくれる存在として登場するのが彼の妹です。彼女は彼に問います。「あなたは結局、何が好きなの? 何になりたいの?」この問いに虚をつかれたホールデンを目撃したとき、読者はあまりにも弱い彼の本当の姿を垣間見ます。そしてこの弱さは誰にもあるものなのだと私は思います。


彼は言います。「子供たちがライ麦畑で遊んでいるんだ。何十人ものね。大人はそこにいない。ライ麦畑は崖に隣接している。子供はそのうち崖の方に近寄って行って落ちてしまいそうになる。そんなときに彼をキャッチする存在、そう、“The catcher in the rye”に僕はなりたいんだ」(←要約です)


キャッチャーになりたい、というホールデンの願望は本当でしょう。しかし私は(そして多くの読者は)こうも思うのです。他の誰でもないホールデン自身が、誰か、信頼のおける、愛するに値する大人に「キャッチ」してもらいたいのではないか、と。


私はこのホールデンの在り方に非常に感銘を受けました。この、新しいブログの名前を「キャッチャー・イン・ザ・ライ」にしようかと思ったくらいです。嘘です。とにかく、おそらく、私だっていまだにライ麦畑でさまよっているのです。そうして、崖から落ちそうなとき、誰かに手をさしのべてもらいたい。そんな子供のような願望があります。と、同時に、こうも思うのです。誰か、メソメソ泣いて、自分がどちらを歩いているかもわからないような人がいて、その人が子供であろうが大人であろうが、崖から落ちそうになった時には何の躊躇もなくキャッチしてあげられる男でありたいと。


最初の記事でこんなに長いこと書く気はなかったのですが、熱くなってしまいました。まあつまり、そういうことです。そういうことを書くブログにしたいなと思っています。

画像は、記事になんの関係もありません。いつだか撮影のロケハンで出かけた浅草の公園かどこかで見つけたパンダの乗り物です。

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