『82年生まれ、キム・ジヨン』を読んだこと、そして生理ちゃん騒動について思うこと
なんとなく気になっていた小説、『82年生まれ、キム・ジヨン』という韓国の小説を読みました。
チョ・ナムジュさんという作家によって書かれたこの小説は、韓国で100万部の大ベストセラーになったということです。韓国の人口って確か5000万人くらいだから、日本の感覚でいえば200万部強売れたということになるのでしょうか。日本で200万部強売れた小説は小松左京氏の『日本沈没』とかリリーフランキー氏の『東京タワー』といったものであり、なるほど確かに大ベストセラー。映画化もされており、台湾でもすでにベストセラー、他にはベトナム、イギリス、イタリア、フランス、スペインなど16か国での翻訳が決定している(もしくは刊行済み)ということです。
この作品は、1982年生まれのキム・ジヨンさんという女性の半生を描写した小説です。私は1984年生まれですので、ほぼ同世代です。そしてこのキム・ジヨンさんの人生に多くの女性が共感し、「キム・ジヨンは私のことだ」と涙を流すというのです。かくいう私もこの小説を読み、瞳が若干濡れました。それはもちろん「キム・ジヨンは私のことだ」という共感からきたものではなく、男性目線として「すまぬ、まじすまぬ」という、申し訳なさからくるものでした。
なぜ「すまぬ」なのか。
この小説はいわゆる“フェミニズム小説”です。男や世間、システムに抑圧されてきた女性を解放するための小説です。この小説で描写される“男性が悪意なく、無意識に女性を差別する様”は、男性の読者の居心地を悪くさせます。
キム・ジヨンさんは大学生のときに、登山サークルに入ります。そして、ジヨンさんの友人(女性)が「登山サークルの部長にいまだかつて女がなったことがないのはおかしい」という問題提起をします。これは年代的に考えて、2000年代前半のエピソードでしょう。そして私はそれを読みながら、同時期に大学で軽音サークルに入っていた自身を顧み、こんなことを思い出しました。
私たちは3年生にあがるとき、軽音サークルの同級生で集まり、我々の世代から次期幹部(部長も含む)を決定する会議を行いました。しかし実際には、サークル内で発言力のある数人のグループ(私を含む)の中で「部長はあいつ、副部長はあいつとあいつだろ? 経理はあいつとあいつだよね」といった話し合いを先んじて行っていましたので、この会議は出来レースみたいなところもあったのです。そして、今思うと本当に情けないのですが、経理に“内々”に決定していたのは2人とも女性でした。決定していたといってもそれは我々が勝手に決めていたのです。彼女たちは本当にその役割を望んでいるのかという自問もなく。もちろん、彼女たちが「いやだ」ということもあるだろうという心づもりはしていましたし、そうなった場合は話し合いをして、他に経理を決めればいいや、というつもりでもありましたし、その場合は別に男女問わず、つまり、“とにかく女に強制して経理をやらせる”という意図はありませんでした。結果、彼女たちは(表面上は)快諾してくれましたが、しかし、そこに、私含む男性部員からの「ま、経理は女だよね、頼むわ、ひとつ」といった圧を感じていなかったと、絶対に言いきれるのか? そしてその圧を、無意識に私たちは出していなかったか? 今考えても詮無いことですが、私はそのことを思い出し、顔を赤くしたのです。私は自身に女性蔑視の価値観がないと信じて生きてきました。しかし、本当はそうではなかったようなのです。この小説はそのように、自らも気づいていなかった非道を見せつけてくるところがありました。
ネット上でこの小説の感想を見ていると、「小説として拙いのではないか」という意見もありました。なるほど確かに「文学としておとしこめているか」という視点で見れば、この小説はあまりにも直截的すぎるところがあります。しかし、文学がなんぼのもんだ、この小説を女性は待っていたのだ、という意見の前には、鼻持ちならない文学論は力をなくしてしまう。とにかく読み物として、圧倒的な力を持つ小説なのでした。
さて、皆さんは『生理ちゃん』という漫画をご存知でしょうか。小山健さんが書く、タイトル通り女性の生理(月経)をテーマにした作品です。この秋には二階堂ふみさん主演で映画化もされました。オモコロというサイトで全話無料で閲覧できます。
私はそもそもこの小山健さんの作品が好きだったのですが、この生理ちゃんの第1話が公開されるや否や、してやられました。「めっちゃいい! この漫画!」と思ったのです。よければ見てみてください。話数を重ねるごとに良くなっていきます(個人的主観)。
で、いま、この『生理ちゃん』がTwitterを中心に炎上しているのです。発端は、この作品と大丸梅田店がコラボしたことにあります。
この秋、大丸梅田店の5Fに、「あなたらしさへとつながっていく場所」というコンセプトでmichi kakeというフロアーが登場しました。このフロアーでは、女性の性と健康に特化したグッズを扱っています。生理用品、スキンケア用品、セックス用品、マスターベーション用品、などなど。こういったものたちが、真面目に、お洒落に、売られているのです。そういったフロアーがデパートに出来たというのは素晴らしいことであり、おおむね、この試みは好意的に受け入れられているようです。
しかし、ここで問題になったのが、このフロアーで働く女性スタッフに「生理バッジ」をつけさせたことです。別に、全社員にアイコンとしてそのバッジをつけさせたというわけではなく、その日、生理がきている女性スタッフにそのバッジをつけさせた、というわけです。つまり、「私、いま、生理中ですよ」ということをオープンに知らせようとしたわけです。もちろんこれは強制ではなく、「生理をもっとオープンに」さらにいえば「(生理中の従業員が)少し辛いようなときに声掛けができたり、声を掛けるまでせずとも、さりげなく気遣いができる、そんなふうにお互いに気遣いし合える雰囲気を作れるのではないか」という発案者の気持ちに共鳴した女性スタッフのみに、自発的につけてもらうというものでしたが、これが大炎上したのです。いわく「プライバシーの侵害」、いわく「セクハラ」、いわく「変態客に目をつけられたらどうする」、いわく「生理だけを特別視するのはおかしい、生理バッジではなく体調不良バッジでいいではないか」……。こうした批判をうけ、12月からはバッジの運営方法を変えたとのことです。
しかし、上記リンクを読んでみると、「生理バッジなんてとんでもないことだ!」と憤慨する人も、少し感じ方が変わるのではないかなと思います。上記はねとらぼが大丸梅田店の広報に取材した記事なのですが、
いわく“着けている女性社員に対して「どう声をかけていいのか考えるようになった」という反応を聞いた。現場ではその反応を聞いて、「私は声をかけてくれなくていい」「私は『大丈夫?』と言ってもらえるとうれしい」というコミュニケーションも生まれている”
いわく“これまでそういう会話自体なかった”
いわく“「生理」という言葉を女性社員も男性社員もフラットに言えるようになったのは大きな一歩ですし、あらためてみんなで考えるきっかけにはなっている”
いわく“そもそも、本来お客さまにお知らせすることではなかった。従業員同士のサインとして運用し、裏側での取り組みとするつもりだった”
つまり、本来、生理バッジとは、生理中の女性従業員が従業員同士のコミュニケーションのみのために、強制ではなく任意でつけるツール、というものだったのです。バッジのデザインやそれが意味するところがマスコミの報道により外に漏れたのはいささかお粗末でしたが、しかし、今後このシステムは、社員同士でのみわかり、任意で取り付けるような形で続けていきつつ、それがどういったものかは社外には公表しないようにする、ということです。
ここまで聞きつつ、それでもこの取り組みを批判しようとする人を、私、言葉が悪いですが「どうかしてるぜ!」って思っちゃいます。怒りで論理が濁って見えているのではないかと思うのです。
話が生理ちゃんに戻りますが、この漫画のターゲットは明らかに男性です。そして漫画のコンセプトは「見ないふりしてきた女性の生理をちゃんと見よう。知ろうとしよう。話し合おう」というものだと思います。そしてもっと言うと、「まずはあなたの目の前にいる女性を知ろう」というものなのでしょう。だって、女性の生理だって人それぞれなのですから。
「女性の生理はもっとオープンにするべきだ」と考える人もいれば「私は恥ずかしいから男性に自分が生理だって知られたくない」と考える人もいるでしょう、そういったことだって、話し合ってみないことにはわからない。私はこう思っているけれど、あなたはどう思っているのか? と。
まずは知ろうとすることが大事。
この件で大丸梅田店を叩いている人は、多くが誤解していると私は思います。そもそも、生理バッジが強制だったと誤解する人、自分は大丸梅田店とは関係ないのにさも自分がそこで働いているのだと誤解してしまう人。
また、知ろうとする努力をしていないなあとも思います。生理バッジなんかより、生理休暇がとれやすくするような仕組みづくりをしろ、という意見もありましたが、これはデパートというものをまったく知らない意見です。売り場の店員さんの多くはデパートの社員ではないのです。デパートの差配うんぬんでスタッフの休暇を決められやしないのです。また、そもそもこのバッジの意図するところは「休むほどではないけどしんどいなあ」という、口に出すのもはばかられる程度の体調不良をお互いに気遣い合える職場にしたいという思いです。そういったことは少し検索すれば出てくる。なのにそれをせず、怒っている。
この件で怒っている、もしくは不快感を表明している女性は、もしかしたらその人生、男からの「誤解」や「知ろうとしない態度」「勝手に決めつけてくる傲慢」に傷ついてきたのかもしれません。でも、自分だってそれと同じことをしていないか? という自省をしないことには、私たちを傷つける分断から逃れることは出来ないのではないかと私は思うのです。
フェミニズムは怒りです。それも、激烈な怒りです。何故ならそこには、今まで抑圧され黙殺され、軽んじられてきた女性の歴史があるからです。私はその怒りを支持します。しかし、そのうえでこうも思うのです。怒りはたやすく論理を濁らせてしまう、と。これはトーンポリシングではありません。自分(が属すカテゴリー)に向けられた怒りにびびって、勝手に居心地の悪さを感じ「君がそんな態度だったら彼らは君の意見を聞かないと思うよ」というばちくそ卑怯な論理展開をするのがトーンポリシングなのですが、私が言いたいのはそういうことではなく、「その怒りによって、論理を見失っていませんか?」ということを言いたいのです。「その怒りが、“知ろう“という意欲を殺していませんか?」ということを言いたいのです。
あらゆる差別は、無知と、知性・想像力の欠如が生むものだと私は確信しています。知ろうとしている、コミュニケーションをとろうとしている、そんな大丸梅田店の試みを、その意図をきちんと知ろうとせずに批判をしている人が多いことは、悲しいことだなあと、そんなことを考えています。
男も女も関係なく、キム・ジヨンになれるし、キム・ジヨンを傷つけうる存在にもなれるのです。
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